純粋な問い掛けだった。
長い沈黙の末に、ようやく細身の男が口を開く。
「……施設だな」
その言葉を聞いた瞬間、大柄の男が即座に顔を上げた。
その反応は、あまりにも早かった。まるで最初から、反対する準備をしていたかのように。
「そんなの却下だ」
細身の男は眉をひそめる。
「聞いてない」
「聞けよ」
「聞く必要があるか?」
「あるだろ!」
即答だった。
意味が分からないと言わんばかりに、細身の男は額を押さえる。
人を説得するのは得意ではない。どう考えたって、脅して従わせるほうが早い。何なら、撃って始末するほうがもっと早い。
だが、目の前の男には、どちらも効きそうになかった。
仕方なく、思いつくそれらしい言葉を並べてみる。
「施設なら安全だ」
「安全だから何だ」
「飯も出る。寝床もる」
「飯なら食わせればいいだろ。寝床だって作ればいい」
その言葉に、細身の男は眉をしかめた。
「誰が」
「俺たちが」
憮然として、大柄の男は沈黙する。どう見ても、本気で言っている顔だった。
だから余計に腹が立つ。
「警察」
「却下」
「親戚」
「却下」
大柄の男は、細身の男の提案をすべて断る。
「学校」
「却下だ」
「里親」
「却下だって言ってんだろ!」
だが、断るだけで、具体的な案は何も出てこない。
「お前、人の話聞いてるか?」
「もちろん聞いてるさ」
「嘘吐け聞いてないだろ」
向かい側では、少女が二人を見比べている。
途中から、会話の内容は理解できなくなっているはずなのに、不思議そうな顔ひとつしない。それどころか、むしろ少し楽しそうだった。
細身の男は、改めて深く息を吐く。
この状況そのものが間違っている。本来なら今頃、互いに名前すら知らないまま別れているはずだった。
それなのに、なぜ自分は薄暗いアトリエで、見知らぬ男と見知らぬ子供の進路相談をしているのか。
考えるだけ無駄だった。
「あのね、パパとママよりふつうだよ?」
不意に少女が口を開く。その声は明るかった。褒めているつもりだった、二人のやり取りを、本気で。
男たちは同時に黙った。
少女は二人の反応の意味がわからず、きょとんとした顔でぬいぐるみと遊んでいる。
部屋の中へ、不意に沈黙が落ちる。数秒前まで続いていた言い争いより、その沈黙のほうがよほど重かった。
細身の男は言葉を失ったまま黙りこくり、それは、向かい側にいる大柄の男も同じだった。少女はやはり二人の反応が理解できず、少しだけ不思議そうな顔をしているが、それ以上は何も言わない。自分が変なことを言ったとは思っていないからだ。
実際、その言葉は少女にとって紛れもない本音だった。怒鳴らないし、物も投げないし、変な匂いもしないし、帰ってきたと思ったら知らない人を連れてくることもない。目の前の二人は少し変だけれど、それでもずっと普通だった。少なくとも少女にはそう見えていたから、ただ褒めただけだった。
細身の男はゆっくりと目を閉じるが、言い返せなかった。
施設へ送るべき理由ならいくらでも挙げられるし、警察へ預けるべき理由もある。それでも、そのどれを選んでも、今は正解ではない気がしていた。
隣を見ると、大柄の男もただ、静かに少女を見ている。その横顔を見て、男は理解する。多分、同じことを考えているのだろう――この子は今まで、どんな家で暮らしていたんだ、と。
その問いに答えられる者はここにはいない。少女だけが相変わらず穏やかな顔をして、一人ぬいぐるみと遊んでいる。それがまた、どうしようもなくいたたまれなかった。
――結局、その夜の議論に結論は出なかった。
施設へ送る。警察へ預ける。親戚を探す。その辺に捨てる。売り飛ばす。
思い付く限りの選択肢を並べてみても、どれも決定打にはならない。いや、正確には、決定打になりそうな案ほど、大柄の男が反対した。
理由はよくわからないが、聞いたとてまともな答えも返ってこない。
だから、途中から男は考えるのをやめた。頭が痛くなるだけだったから。
アトリエの中には、静かな空気が戻っている。
少女は、ソファの上で船を漕ぎ始めていた。限界だったのだろう。誕生日を待ち続け、眠いのを我慢し続け、ようやく安心したのだ。
小さな身体が何度も前へ傾き、そのたびに慌てて目を開けている。
細身の男はその様子を見て、小さく息を吐いた。
「一晩だけだ」
誰へ向けた言葉だったのか、自分でもよくわからなかった。隣にいる男か、少女か、それとも自分自身か。
「そうだな」
大柄な男の返事は軽い。軽いが、反対はしなかった。
少女はその言葉を聞くと、ほっとしたように笑った。
「ほんと?」
「ああ」
細身の男は短く答える。
本当に、一晩だけのつもりだった。
明日になれば何とかする。別に、施設でも警察でも親戚でもいい。本人が嫌がろうが、男が反対しようが、とにかく、自分たちとは関係のない場所へ送る。そう決めていた。
少女は安心したのか、そのまま毛布へ包まるように身体を丸める。ぬいぐるみだけは、最後まで離そうとしなかった。
数分もしないうちに、小さな寝息が聞こえ始める。男たちは、黙ったままその姿を見つめていた。
静かなアトリエに、少女だけが眠っている。
けれど、二人は眠れない。
ソファで丸くなる少女を見るたびに、やってくるのは明日のはずなのに、なぜか未来がこのままやってくるような気分になってしまう。
その理由だけは、誰にもわからなかった。
――細身の男は結局、一睡もできなかった。
眠る理由がなかった訳ではない。むしろ、疲労だけなら十分過ぎるほど溜まっている。昨夜は人を殺し、予定外に死体を運び、慣れない問題を抱え込んだ。それでも目を閉じる気にはなれなかった。
だから、夜が明ける前に起き上がり、手持ち無沙汰のままキッチンへ立った。理由は、自分でもよくわからない。ただ、子供は朝になると飯を食うものだろうと思った。そして、それは大人が作るべきだとも。ただ、それだけだった。
アトリエは、そこだけで生活できるように、基本的な道具が揃っていた。控えめなサイズの冷蔵庫を開けると、卵にベーコンがあった。隣の棚には食パンも置かれている。
これだけあれば、朝食には十分だと男は思った。
……だが、それと料理ができることは別問題だった。
目玉焼きは黄身が途中で崩れた。ベーコンは少し焼き過ぎて、トーストも気付けば端が黒くなっている。
皿に載った完成品。フライパンから無理に剥がしてぐちゃぐちゃになった目玉焼きと、焼きすぎてカリカリに縮み固まったベーコン、それに、焦げを誤魔化すためにマーガリンを塗りたくった硬いトースト。
男はしばらくそれを見下ろした。
失敗だ、どう見ても。自分で食いたいとも思わない。だが、作り直すほどの気力もなかった。
どうせ一晩だけだ、今日で終わる。ならばこれで十分だった。
むしろ都合がいい。これを見れば、少しは嫌になるだろう。こんな男と一緒にいるより、まともな場所へ行こうと思うだろう。
男は本気でそう考えていた。
だから少女が起きてきた時も、特に期待していなかった。
寝癖のついた髪を揺らしながら男の元へ現れた少女は、眠そうに目を擦っていたが、テーブルの上を見るなり足を止めた。
そして。
「わぁ……」
小さく声を漏らした。
男は眉をひそめる。何か変なものでも見つけたのかと思った。
だが違った。
少女は椅子へ駆け寄るように座り、並んだ皿と細身の男を、何度も見比べている。
焦げたトースト、焼き過ぎたベーコン、崩れた目玉焼き。
どこをどう見ても失敗作だった。それなのに少女の顔は輝いていて、まるで、高級レストランの朝食でも出されたような顔だった。
「たべていいの?」
男は少しだけ黙った後、ばつの悪そうに短く答える。
「ああ」