『開かせるもの』第二十九話

開かせるもの

 祐一は頭を抱える。
 ここのところ――正確には、楓がいなくなってから。自分の見るもの、感じることに対して自信が持てなくなっていた。
 だが、誰にも言えない。言えないまま、時間だけが過ぎていった。

 毎日同じ白い朝、マンションを包むもや。
 部屋の中でも聞こえるエレベータの到着音、楓の声で聞こえた『乗りますか?』の声。
 誘うようなノックの音、誰もいないはずなのに見えた影。
 繰り返した学校までの道、いつもと同じ文字、同じ薄さで貼り出される紙。

 何が正解で、何が間違いなのかわからない。間違っていたとしても気付けない。同じことの繰り返し。本当は少しずつ違うのに、同じとしか思えない。

 祐一は「自分は今ここにいる」と思うことで、何とか平常心を保っていた。

 寝る前、結菜は寝転がって隣で絵を描いている。今日の絵は――

「結菜、今日は何を描いているの?」
「ママ! と、おじさん」

 まるで「忘れるな」と言われたような気がした。

「もし、俺と結菜で引っ越すことを選んだら。このマンションから逃れることができるのか?」

 家の中ならば、口に出しても問題ないはずだ。楓も今はここにいない。
 必死に考える。

「なぁ結菜。この間は面白かったな」
「なにが?」
「ほら、学校へ行く途中。同じところをぐるぐる回ってただろ?」
「めいろみたいだった! でも、ちょっとこわかった」

 目をきらきらさせたかと思うと、次の瞬間には口と眉をへの字に曲げている。

 祐一はノートを開け『加賀美』の名を何度も書いた。下の個を表す部分だけが違う、同じ意志を感じる名前と職業。
 線の流れ、厚み、重なり。漠然と『このマンションは何かの儀式の装置』だと、そう思っていた。

 それに、エレベータもこの部屋も、枠だけ見ればただの箱だから。
 そこに、もうひとつの理由を重ねる。

「――あぁ、そうか。この線はまるで、魔法陣じゃないか」

 すっと口から零れ落ちる言葉。引っかかりはない。
 流れるような線は、魔法陣だった。地下へ集約する、鏡によって刻まれた導線。エレベータを通り、家を繋いで地下へ帰る。それが意味するものはわからない。
 やはり、意図してこのマンションは建てられた。失敗しても、次へバトンを繋いで進めている。

「パパ? まほうじんって? まほう? つかうの?」
「……何でもないよ」

 マンションは装置。玄関の扉とエレベータは導線。

 人は――

「贄……」
「パパ? にえってなに?」
「……人のことだよ」

 そう口にして気が付いた。既に毒されているんだ、と。

「あれ? 結菜、その黄色のクレヨン」

 娘の使うクレヨンへ目を落とす。先の欠けた黄色のクレヨン。いつの間にか、その欠片が箱の中に入っている。
 その欠片は、お隣の玄関に落ちていた物と同じだった。顔は思い出せないのに、欠片は思い出せるなんて。

「みて! あったの! さきっぽ!」
「どこにあったの?」
「えっとね、えっと……どこだっけ?」
「もしかして、お隣のおうち、かな」

 ただ一言「違う」と言ってほしくて、わざと追って聞く。

「あ、おねえちゃん!」
「お姉ちゃん」
「うん、あのおねえちゃんが、わたしてくれたんだよ!」

 だってあれは、締め切られた家のなかにあるはずだった。

「赤い、ヘアピンの?」
「そうだよ、おれいっていってたきがする」
「お礼……?」

 ――こん、こん、こん。

 ノックの音。祐一ははっと部屋のドアを見て、結菜は肩を震わせる。
 廊下に響いた三拍のノックは、これまでと同じはずなのに、今日だけは音が違っていた。まるで血管の奥を叩かれているように、祐一の鼓動と重なり、体内に入り込んでくる。
 結菜は布団の中で耳を塞ぎ、身体を丸めていた。肩は細かく震え、瞼は固く閉じられているのに、震えが瞼の奥の夢にまで届いてしまうかのようだった。

 祐一は立ち上がり、玄関へ歩み寄る。足先が近づくたびに、ノックの音は僅かに間を詰める。待たれている。扉の向こうの「誰か」が、確かにこちらを見ている。
 覗き穴を覗くと、そこには何もいない。ただの白い廊下。ただ、視界の隅に黒い点がひとつ揺れた。気のせいかと思うと、点は消え、次の瞬間、耳の奥に声が落ちた。

 ――『開けますか?』

 男とも女ともつかない声。金属と人声の中間。エレベータの声と同じ。管理人の声に似ていて、同時にこの建物全体が囁いているようにも聞こえる。
 開けるかどうかの選択肢は、祐一にとって大きな意味があった。

 開けて、妻を追うか。
 開けずに、娘を守るか。

 楓の痕跡はまだ家中に残っている。タンスの服、鏡に残った指紋、台所のマグカップの跡。彼女を追えば、まだ間に合う気がする。
 だが、追った先で自分も取り込まれれば――結菜はどうなる? 小さなこの子を、一人で置き去りにすることになる。こんな、わけのわからない場所に。

 部屋の扉を開けっぱなしにして、結菜の元へ戻る。玄関のカギはふたつ、チェーンはかかっている。

「……ママは、かえってくる?」

 布団の中から結菜のくぐもった声が漏れた。眠っているのか、起きているのか、判別できない。さっきはまだ眠っていなかった。時間はほんの僅か。
 ……起きている。
 その問いかけは刃物のように祐一を裂いた。

 布団の上から結菜の頭を撫でた。
 守るべきは今ここにいる結菜。しかし、今諦めれば、きっと一章楓には会えない。頭の奥でふたつの映像が交錯する。

 ――朝の白の中で笑う楓。
 ――小さな手で必死にクレヨンを折る結菜。

「……どちらかを捨てろっていうのか」

 祐一は呻いた。

 ――『開けますか?』

 声が再び落ちてくる。同じ言葉、同じ濃度、同じにおい。管理人の顔が脳裏に浮かんだ。笑っているのに目が笑っていない、あの顔。
 距離があるのに、その声は薄れない。近くで聞くのと同じように、同じ濃度と大きさで迫る。

「ふざけるな……」

 祐一は玄関のドアノブに手をかけ、すぐに外した。冷たい金属の感触が掌に残り、それを振り払うように拳を握る。

「開かされてたまるか。選ばされてたまるか! 俺はどちらも捨てない。楓も、結菜も。そんな理屈に従ってたまるか……!」

 しかし、決意の裏で恐怖が囁く。
 本当に守れるのか? この建物に抗えるのか? 設計者は? 管理人は?
 忘れることを強制され、更新の名の下で「退去」に書き換えられていくのではないか?

 またひとつ、布団の中の結菜が小さな声で呟いた。

「パパ、あけないで……」
「……結菜」

 掠れた声で呼ぶと、布団から小さな顔が覗いた。真っ黒な瞳が、不安と信頼の両方を湛えている。

「でも、ママは?」
「……」

 言葉が喉で絡まり、祐一はただ首を横に振った。

 ――こん、こん、こん。

 音が一段と強くなる。だが、もうノブは回さない。祐一は両手をあげて、結菜のほうへ向き直った。

「ママを追いたい。……でも、それより大事なのは結菜だ」

 震える声は、誰に向けたものなのか自分でもわからなかった。けれど、結菜は小さく頷いた。

「じゃあ、やくそくして。あけないって」

 その言葉は祐一の中で「結菜を守って」という命令に変換された。
 同時に、遠くから楓の声も重なる。

「しずかにね」

 二人の声が交錯し、心臓の奥でぶつかり合った。

「……ああ。約束する」

 祐一は両耳を塞ぎ、うずくまった。頭蓋の中でノックの音と二人の声が混ざり合い、脳を圧迫する。

 結菜を守ると決めた、が、揺れる心がはっきりと答えを出すことを拒む。だが、答えを出さないこと自体が、この建物にとって「違反」なのではないかという予感が、祐一をさらに追い詰める。

 玄関の向こうでノックが止まった。止まってから二拍の沈黙。
 その静けさの中に、選択を迫る圧が残ったまま漂っている。
 祐一は大きく息を吸い込み、声を絞り出した。自分の声を聞かせるために、再度玄関へ向かう。

「……二人とも、まだ俺が守る。選ばせるな。選ばれない方法を、俺が探す」

 その瞬間、廊下の気配がすっと引いた。ノブにかけていた見えない手が外れたように、音は完全に消えた。
 部屋に戻り、結菜の冷たい手を握りしめる。小さな骨の感触を確かめながら、祐一は心の奥で呟いた。

 ――まだ俺たちは、二人でここにいる。


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